このページはたいしたこと、書いてません。多忙な日々を過ごしておられるあなた、

決して見てはいけません。時間の無駄です。

 

性格:

運転免許をとるときに受けた性格テストによると、「よく言えば、慎重(名前の通り)で几帳面、悪く言えば、人に気を遣いすぎ、プレッシャーに弱く、あがりやすい」。

 

趣味:

楽器(幼少よりピアノ、高校・大学では吹奏楽部・オーケストラに所属し、ファゴットやオーボェをいじる)。楽器を吹いてる、というと、「何吹いてるのう? ほらでも吹いてるのか」とくだらない駄洒落をいう人が必ずいる。

一時期、山歩き(登山というレベルは決してない)や、カメラにもこる。残念なことに、今はあまり時間がとれない。最近は読書・・・ !?

 

今取り組んでいること

天文教育・普及に関して

 2005年夏のIAU(国際天文学連合)アジア太平洋地域会議(APRIM)を機会に、国内で天文教育・普及に文字通り全存在をかけてうちこんでいる方に多数お会いし、いたく感銘をうける。ということで、何か、個人的にも始めたい。今、考えているのは、天文普及のバリアフリー化。病院(小児科)訪問活動はその一環。

本の執筆と編集

 昨年は一般向け解説書「ブラックホール天文学入門」(裳華房)、「天文学入門」(岩波ジュニア新書)を出版。現在は、専門書”Black-Hole Accretion Disks”(京大出版会)の改訂版作成と岩波の新しい企画(これはまだ内緒)に取り組む。くわしくは、「著編書」の項へ。

 

昔読んで励まされた本

立花隆・利根川進「精神と物質」(文藝春秋)

 人間の頭の容量なんてのはだいたいみんなきまっているから,記憶力がものすごくいい秀才タイプは,逆にひらめきみたいな能力に欠ける.…(私は)記憶力があまりよくないから、頭のどこかにポカッと穴が開いている。だからときどき変なことを考える.それがサイエンティストには重要なんだ.(p.112)

 

最近読んで感銘を受けた本

中田正一:「国際協力の新しい風」(岩波新書:赤130)

 今は誰が書いたのかも忘れ、確かな内容も忘れてしまったが、20代の初めに、『第二里の人』という本を読んだ。その中に「人もし汝に一里ゆくことを強いなば共に二里ゆけ」(聖書マタイ伝、文語訳)が用いられており、深く考えさせられた。第一里と第二里のちがいは何なのかと。そして、その後、義務的な管理された仕事は第一里、自分で自由に選んだ歩みが第二里、すなわち第二里は、「ボランティア活動」ではないか、と思うようになった。(まえがき p.i)

 私は「教育だけが永遠である」と考えている。海外協力においても、金や物の協力はいかに莫大なものであっても、その場かぎりの一時的なものである。ところが人から人へ伝わっていく教育的な協力は、いかに小さいものであっても時間をこえ、空間をこえて限りなく発展するものであることを私自ら体験してきたからである。(p.120)

 

高橋団吉:「新幹線をつくった男 島秀雄物語」

 島さん。あなたの足跡を追いはじめて、はや2年がたちました。。。。

 2年間の取材を通して、東海道新幹線の宿している世界史的意義を知って、おおいに驚かされました。しかし私には、島秀雄という人物が存在したということのほうが、はるかに衝撃的であったように思います。

 高き理想をかかげて、努力を惜しまず。スターを作らず、スターにならず。個人の名誉より、人類全体の知見に貢献せよ。その島流のモラルと哲学は、技術の世界を超えて、広くわたしたちに多くの示唆を与えてくれます。(p.280-281)   

 

井上ひさし

むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく。

 

生い立ち:

1957年12月10日
札幌市・北大近くの病院(天使病院という)で誕生。未熟児。

1958年4月
親の(一方的)都合で兵庫県宍粟郡山崎町(現宍粟市)に移る。したがって札幌時代の記憶なし。山崎町は人口3万弱、四方、山に囲まれた田舎町。鉄道は通っておらず、唯一の交通機関は姫路・龍野からのバスのみ(当時)。もっとも最近は中国縦貫道のインターチェンジができてとても便利になった(と同時に昔の田舎風景や商店街はさびれている)。

1964年4月(東京オリンピック、そして東海道新幹線開通の年)
山崎小学校に入学。校庭はばかでかかった。あまりにでかかったので、休み終了のチャイムが聞こえず、ずっと遊んでいて先生にしかられた。(その後、校庭は削られて今ではずっと小さくなった。)
ほとんど毎朝朝礼があり、かゆいところがあってもかかずに我慢する訓練をうける。たまに当時を思い出して試みるが、たいてい挫折する。あなたも、ぜひトライしてみてほしい。我慢すればかゆさは快感に変わるかも。

1968年4月
5年生進級とともに合唱クラブと鼓笛隊(小太鼓)に入る。担当はむとう先生(女性)。何かへまをするたびに、足(ふともも)をぴしっ、ぴしっとひっぱたく怖い先生だった。練習がおわると、必ず誰かの足にむとう先生の手形がついていた。人の皮膚はひっぱたくとしばらく赤くなることがよく観察できた。

1969年4月
神戸市灘区にひっこし。あんなに怖かったむとう先生が、引っ越し当日の見送りにきてくれたのにはびっくりした。市立福住小学校に転校。田舎の学校とうって変わってみんな秀才に見えた。(そうでもない、とその後、気がついた。)
それまでずっと電車のない生活をしていたので、うちの窓から見える阪急電車がまぶしかった。阪急電車への思い入れは今だに引きずっている。

1970年4月(大阪万博の年)
市立上野中学校(神戸市灘区)に入学。とたんに丸坊主(強制)。洗髪は楽だった。
吹奏楽部に入部。(楽器は)何でもいい、と言ったら、ユーホニウムというのになった。担当は安田先生。音楽の時間には、長い竹の棒を振り回し、忘れ物をした生徒の頭をぽーんと打っては喜んでいた変な先生だった。頭をたたくと頭が悪くなると苦情が出てからは、おしりをたたいていた。やはり変な先生だった。が、音楽教育は熱心だった。吹奏楽用に編曲されたクラシックの名曲をたくさんやった。

1973年4月
兵庫県立神戸高校に入学。依然、丸刈り(自発的)。洗髪は楽だった。
吹奏楽部に入部。楽器はファゴット。部活生活では、数々の逸話(伝説)が生まれたが、内緒。年に何回か弦楽部と合同でオーケストラを組織する。思い出の曲はモーツァルト交響曲第40番(実力がないので第一楽章のみ)。本番で手がもつれてとちったら、指揮の竹本さん(現名古屋フィル指揮者)ににらまれた。さすが名指揮者は、何十人も演奏している中で、たった一人とちってもすぐわかるものかと、感心した。
今でも当時の部員とのつきあいが、年に2度の寄り合いの形で続いている。その起源は、同級生の部員3人による高校3年次の夏休み大告白大会(+失恋慰め激励会)にさかのぼる。今では完全な同窓会と化しており、昔の逸話が飽きることもなく、繰り返し繰り返し蒸し返される。しかし、いろいろな方面で活躍している人と話が でき、自分を取り戻す時間ともいえる。

1年の担任は網谷先生(英語)。とにかくこわーい先生だった。が、2001年の同窓会でお会いしたら、すっかり丸くなっておられた(顔が、ではない)。「神戸高校の顔」のような先生だったが、今では灘高の先生。

1975年4月
高校三年。担任は松下巌先生。京大数学科卒で、同級生に広中元ハーバード大教授(現山口大学長?)がいたという。「理学部を出ても研究職にはなかなかつけんから、理学部なんかにいくな」という徹底した理学部志望者弾圧を行う。それでも理学部にいったのが私を含めて数名いる。神戸高校を見限って、現在灘高の先生。

1976年4月
大道予備校(神戸市)にて浪人。人生、いろいろあることが実感できた有益な一年。創立者の大道先生は(当時80才だったか)現役で、毎日午後8時からは翌日の授業の予習をするため、宴会も断るとおっしゃっていた。たぶん本当だったのだろう。他にも個性ある先生が多かった。

1977年4月
東京大学理科一類入学。オーケストラに所属。練習に明け暮れる。印象に残った曲は、マーラー交響曲第6番、チャイコフスキー交響曲第1番。この時以来、マーラーの大ファンとなる。 しかし、「あれはクズだ」とくさしている人も結構いた。マーラーは、少々間違えようが、変な音を出そうが(木管の場合)全然目立たないからストレス発散にはいいかもしれない。(何を ふいてもわからないからむなしいとも言える。)モーツァルトではそうはいかない。間違えたらもちろんのこと、音が出なくてもばれてしまう。

1978年10月
進学振り分けを突破して天文学科に内定。といっても決して成績がよかったからではない。事前の調査で合格最低点が異常に高かったため、成績比較的優秀の学生が次々と敬遠し、結局、最後まであきらめなかった希望者全員が進学。後期の専門課程の講義・演習は物理学科学生と共通で随分中身が濃かった。今までで一番勉強した。特に、有馬教授(元文部大臣)による物理数学の講義は印象的だった。進学生歓迎のコンパで小平先生にお会いし、ドイツ留学時代の話を伺う。ドイツ生活へのあこがれが始まる(8年後に実現する。)

1979年4月
本郷に移り天文学科に進学。オーケストラ活動に精を出す。モーツァルト交響曲第38番「プラハ」、マーラー交響曲第2番。ブラームス交響曲第2番(今でも一番好きな曲)、ベートーベン交響曲第7番。勉強の方もぼちぼち。天文学科の授業が増え、勉強は少し楽になった。しかし小柴教授の実験は、ただただ厳しかった。テレビで拝見する印象とはまるで違う。

1980年4月
それまでなかった4年生の演習(卒業研究に相当)がこの年発足(それまで講義と、講義に付随した演習しかなかった)。いくつかの課題が出されたが、唯一、希望者のいなかった尾崎洋二先生の課題を、(深い考えもなく)とる。人生の一大転機であった。

1981年4月
東大大学院理学系研究科(天文学:修士)に入学。しばらくいろいろなゼミに出ていたが、結局、深い考えもなく尾崎先生に師事する。研究テーマは矮新星バーストの円盤不安定モデル。 ラッキーだったのは、尾崎先生が1974年に発表された円盤不安定理論が、このころから外国で 注目されていたこと。1982年の米国での会議で、自分の説がメジャーになっていること に驚かれた尾崎先生が、さっそくテーマをたててくれて修士論文にまとめる。

1983年4月
東大大学院理学系研究科(天文学:博士)に進学。初めての論文執筆。最初に書いた原稿を、尾崎先生に跡形もなく直される。一行目から、すでに痕跡はなかった。ところで、この論文、国内での受けはめちゃくちゃ悪かった(批判されたというのではなく、無視された)。(ところが、この年に日本から出版された論文でトップクラスの引用件数を誇る論文となった。)

1984年12月
テキサス大学の Wheeler教授から、研究員としてテキサスに来ないかという手紙。この先、研究を続けようかどうしようかと悩んでいた時だったので、生涯で一番うれしい手紙となった。もっとも彼は、そのための資金を調達することができず、とりあえずこの計画は白紙に(が、3年後に実現する)。

1986年3月
東大大学院理学系研究科に博士論文提出。タイトルは "Disk-Instability Model for Outbursts of Dwarf Novae". 審査員は、尾崎教授のほか、池内さん(現総研大)、松岡さん(現宇宙開発事業団)など。難なく審査をパスしてOD(オーバードクター;博士号がありながら常勤職をもたないこと)に突入。(ODの経験の長かった)斉尾さん(東北大)に、「ODおめでとう」と言われる。まもなくドイツから研究員の誘いの手紙。前からあこがれていたドイツだけに嬉しかった。

1986年12月
渡独して、マックスプランク天体物理学研究所(旧西ドイツ・ミュンヘン郊外)研究員。ホストは Friedrich & Emmi Meyer 夫妻。初めての海外生活をうまくサポートして頂いた。生まれて初めての給料はドイツマルクDM。ちょうど同時期、同じ研究所にいた花輪さん(現千葉大)と週末ごとに遊び歩く。

1988年1月
テキサス大学オースティン校研究員。給料は米ドル。ボスは John Craig Wheeler教授。同じ大学に John Archibald Wheeler という相対論の大家がおり、よく間違えられていた。そこで彼はまわりの人に、ファーストネームの John ではなく 、ミドルネームの Craig と呼ばせていた。いかにもアメリカ人的な気さくな人で、研究そのものだけでなく、研究姿勢や学生への対応など、実に多くのことをおそわった。研究課題はブラックホールX線新星(トランジエント)における円盤不安定。当時は全然受けなかった説だが、現在では定説となっている。
そのころ、同じ建物(物理、核融合プラズマ研究室)の田島俊樹さん (現関西原研所長)を長期に訪ねていた柴田一成さん(現京大花山天文台)と出会う。 夜遅くまで議論し、オースティンの町を、夜な夜な 日本の理論天文学(世界のMHD天文学?)の将来について語り合いながら歩く。(このころ「MHDこそすべて」という教えに洗脳される。)
なお、テキサス大キャンパスは、ワインバーグとプリゴジンという二大ノーベル賞学者が闊歩していた。雲の上の人と思っていたが、ある日、故障した自動販売器に腹をたてたワインバーグ教授が販売機にパンチを浴びせていた、と聞いてから、少々親近感がもてた。

1989年3月
カナリー諸島テネリフェ島(アフリカ・モロッコ沖)の天文台に出張中に、ケンブリッジ大学研究員に内定したとの電話を天文学研究所所長のRees教授よりじきじき賜る。生涯でもっともうれしい電話であった。

1989年10月
ケンブリッジ大学天文学研究所(Institute of Astronomy)研究員。給料は英ポンドBPになった。Andy Fabian, Martin Rees 両教授と、X線連星系や活動銀河核の研究をする。毎日午前11時からのコーヒーアワーは、ゲストも含め全研究者がひとところに集まって議論する壮大なイベント。ケンブリッジの研究者は、人との議論により研究をすすめ、合間に論文を執筆することが、よくわかった。
Elsie Walton というおばさんちに下宿。この方は数十年にもわたってケンブリッジを訪れた世界各地からの研究者とその家族のお世話をしてこられた方であったが、残念なことに数年前になくなられた。今、記念のベンチがケンブリッジのどこかの公園においてあると聞く。ケンブリッジの町が、昔のよさを失って、若者向けの(軽薄な?)町に落ちていくのをよく愚痴っておられたっけ。口癖は "Can you imagine!?" "Extraordinary!"

1990年9月
茨城大学理学部助手。給料はようやく日本円になった。カルチャーショックを受ける。でも最初(で最後)の卒論の学生とのゼミは楽しかった。大学院生もよくできた。西森拓さん(現広島大)と仲良くなり、複雑系に興味をもつ。毎晩、二人して勉強をしている学生を誘い(かどわかし)、深夜まで学生と議論(と宴会)。だいたいから、水戸の繁華街(駅近辺)と大学のちょうど中間に飲み屋があるのがよくない(「休憩」と称して2次会が始まる)。また、皆大学近辺に住んでいて終電、終バスを気にせずにすむこともよくない(3次会が始まる)。このような生活は、もう一生ないだろう。

1992年3月
京都大学理学部助手に転任。15年ぶりに関西に戻ってこられて正直ほっとした。思い入れの阪急に毎日乗る生活。そして、ことあるごとに高校時代の仲間と会う。

京大宇宙物理学教室には、ブラックホール降着円盤で世界的に著名な加藤正二先生ほか、ユニークな人がたくさんおられた(何がユニークか、書くと差し支えがありそうなので、定年後に発表しようと決意する)。幸いにして、元気で優秀な学生が次々とついてくれて、いい研究ができた。

1998年3月
たよりにしていた加藤先生が退官される。退官記念に、加藤先生、福江純さん(大阪教育大学)と共著で、英文の教科書を京都大学学術出版会より発刊。全部で600ページの大部(詳しくは「著編書」のページへ)。執筆はほぼ1年かかり、とても消耗。しかし、そのかいがあって、評判は上々。

1999年4月
このページを作り始める。野上大作さん(現飛騨天文台)に教えを乞う。

この年、柴田さん、福江さん、松元亮治さん(千葉大学)と共編で「活動する宇宙」を裳華房から出版。

2001年4月
大学院理学研究科から、基礎物理学研究所まで、京大の内部を約150メートル移動。 部屋は一階で、ちょうど植物園を望む位置にある。窓の外に広がる緑一色は、ちょうど ケンブリッジ時代を想い起こさせてくれ、満足。ここにもさらにユニークな方がおられるが、やはり差し支えがありそうなので、定年後に。

2004年7月
小久保英一郎さん(国立天文台)との共編で、岩波ジュニア新書より「宇宙と生命の起源」を出版。編者を含めて、総勢11人が一章づつ担当。大変勉強になった。(が、とてもジュニア向けではないとの評であった。私もそう思う。)

2005年4月
「ブラックホール天文学入門」(裳華房)を出版。構想から有余年。うだうだしていたが、名編集者の國分さんの熱意に動かされ、ついに完成。

2005年7月
バリ島でAPRIM開催。天文教育・普及セッションには、日本からも高校生や先生方が50名ほど参加し、英語のトークをしたり、地元の高校生と交流したり、とても楽しく過ごした。同月、岩波ジュニア新書「天文学入門-星・銀河と私たち」を出版。有本淳一さん(京都・塔南高校)と共編で、APRIMの企画を一緒に立ち上げた、縣さん、黒田さん、鈴木さん、高橋さんが執筆陣として大活躍。

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Shin MINESHIGE