Nature and history of Ouda

  

観測所周辺の雑木林 (1997年冬撮影)

12.大宇陀の自然と歴史

12.1.大宇陀の自然
 奈良盆地の南端に位置する桜井市より南東に約15km山に入った所に位置する。
観測所の標高は約400mであるので冬季はかなり冷え零下10゜Cになることもま
まある。しかし雪はそんなに降らない。一冬に2〜3回、数cm積もるぐらいである。
南へもう一山越えると中央構造線に沿って流れる吉野川にたっする。観測所のすぐ東
1kmのところに日本唯一の硫化水銀鉱山があり、弘法大師の頃から辰砂として薬や
顔料に利用されていたらしい。現在は、(株)大和金属鉱業の分析研究所としてその
名をとどめているのみで、輸入に100%依存する日本の経済構造を反映して他の鉱
山と同様に廃坑になっている。

 大宇陀町小附は天然記念物のカザグルマという植物の自生北限として知られている。
吉野に隣接する林業の町として栄えてきたので、ほとんどの山は杉や桧が植林されよ
く管理された美林となっている。しかし、一部分は雑木林として残っており櫟、小楢
などの林が椎茸の原木生産に利用されている。これらの雑木林は当然時期が来れば伐
採され、数年すると切り株から新しい芽が伸びて林が再生するのであるが、最近は伐
採後に生長の速い杉や桧の苗を植えることが増えているらしい。年中緑色をしている
杉や桧の純林は木が生長するにつれて林床に陽光が届かなくなり一年中薄暗い。潅木
や下草などは殆ど育たなくなり針葉樹の落葉に被われるだけである。植物相が非常に
単純であるために生息する動物の種類も少ない。それに比べて、雑木林は冬には葉を
全て落し、陽の光は明るく地面を照らし春蘭、チゴユリウバユリなどのスプリング・
エフェメラル(春植物)が早春を告げてくれる。また日当りの良い斜面や林縁にはウド、蕨、タラなどの山菜が豊富である。桜が散るころに雑木林の樹々も一斉に芽を
出し目も醒める様な薄緑のもやに包まれる。夏は吉野特産のに被われ、の甘い樹
液の香りと草活きれと虫たちの羽音にむせかえりそうである。秋には燃えるような紅
葉、櫟の赤はやや地味な茶色がかっているがコナラの黄や柏の朱は素晴らしい。

 春は鴬、ときにヒレンジャク、キレンジャクの群れ、初夏にはホトトギス、アオバ
ズク、夏にはカワセミ、秋には中央構造線をはずれたサシバ、ハチクマの渡りの一群
を上空に見る、また嵐の時にはアマツバメが低く飛ぶことがある。冬にはアオジ、ミ
ヤマホオジロ、ベニマシコ、ウソ、ツグミ、モズを見かける、また明け方フクロウの
声を聞く。一年中を通して、エナガ、シジュウカラ、ヤマガラ、コゲラ、アカゲラ、
ヒヨドリ、カラスを見ることができる。

 クヌギの雑木林があるにもかかわらず、夏にクワガタムシやカブトムシをほとんど
見ない。京都市近郊ではイノシシ、タヌキ、ノウサギ等がけっこう多いのだが、観測
所近辺は人家があるのでイタチを除いては野生の哺乳動物をほとんど見かけない。ヘ
ビはやたらと多い。夏は草むらに足を踏み入れないほうがよい、マムシに注意!

観測所周辺の風景 野鳥のリスト

12.2.大宇陀町の歴史・風土  大宇陀は大和朝廷成立のころから奈良盆地にちかいために多くの遺跡が残されてい る。観測所前の林道を西に行くと、すぐ谷脇古墳がある。桜井市と大宇陀町の間にそ びえる900m級の山々は、ヤマトタケルの育った伝説の地として黒岩重吾氏が小説 の題材にもとりあげている。さらに、国道につきあたるところに海抜450mのちい さな高倉山があり、日本書紀に「神武天皇菟田の高倉山の嶺に登り域中に眺望し給っ た。」とある。森野旧薬園三代好徳の建てた神武天皇望軍之旧蹟碑がある。現在の大 宇陀町役場南西の一帯は阿騎野と呼ばれ、柿本人麿の「ひむがしの野にかぎろひの立 つみえてかえりみすれば月かたぶきぬ」で有名である。この歌は人麿が軽皇子の伴を して阿騎野に狩りし、泊まった翌朝に詠んだ万葉集中の秀歌である。その美しい風光 は1、300年の今に面影を伝えており、大宇陀在住の写真家である吉田春秋氏の写 真集に、われわれは「かぎろひ」の姿を伺い知ることができる。役場の西に広がる丘 陵には人麿の万葉歌碑が立てられており、毎年12月にはかぎろいを見る会が盛大に 催されることになっている。  義経が鞍馬山に入る前の幼い頃、母の常盤御前につれられ、頼朝とともに隠れ育っ たことは、「吾妻鏡」の中にある腰越状にでてくる。平家を制圧して帰る途中、頼朝 から鎌倉入りを禁止されたとき「父義朝、御他界の間、実なき子となり母に抱かれ大 和宇多郡竜門の牧におもむきより一日も安堵の思いに住せず」と苦悩を腰越で書いた 有名な手紙である。また、義経が頼朝の軍に追われて弁慶らと落ちのびたとき、村人 の食事を受けたが、去った後に弁当の箸千本が残っていたという千本橋、常盤橋、義 経橋など大宇陀町南部の栗野、牧には義経にまつわる伝説が多い。  大宇陀は伊勢と大阪を結ぶ要衝だったために、近世初めには五家による城主交替が あった。市街地の東に秋山城跡がある。南北朝争乱の天平元年(1346年)秋山親 直が築城したと伝えられている。秋山氏は清和源氏と称し伊勢北畠氏に属し以後南朝 に尽くしたが天正13年(1585年)大和大納言秀長に滅ぼされた。元和元年、織 田信長の次男信雄(常真公)がこの地に封ぜられて以来高長、長瀬、信武の四代八十 年間織田氏3万1千石の城下町として栄えた。元禄の頃には、人口3、700余りと 奈良、郡山につぐ大きな町として発達した。大宇陀には片岡邸、笹岡邸など数百年を 経た庄屋屋敷が残されており、重要文化財に指定されている。秋山城跡の麓にある森 野旧薬園は今から230年ほど前に徳川幕府の採薬使、植村佐平次が紀和方面に来た とき森野さい郭が同行して宇陀、吉野地方を四ヶ月にわたって採薬した。幕府はその 功により漢種草木の苗数十品を与え、以来森野薬園は幕府の補助機関として発展した。  昭和17年に松山町、神戸村、政始村、上竜門村が合併して人口11、000人余 りの大宇陀町が誕生した。近鉄線建設のときに大宇陀を通過する計画もあったが、結 局榛原を通るルートにきまった。主な産業は林業と農業であるが、人口の面では現在 やや過疎化の傾向があらわれている。土産物としては、黄味ごろも(饅頭)、宇陀五 香(菓子)、吉野葛が喜ばれている。山菜も豊富で、わらび、たらの芽、山蕗などを 採って美味しく食することができる。 参考文献 ・「おおうだ」、大宇陀町観光協会パンフレット ・「新訂 大宇陀町史」、1992、大宇陀町史篇纂委員会 ・「人麿の暗号」、藤村由加、1989、新潮社 ・「白鳥の王子 ヤマトタケル[大和の巻]」、黒岩重吾、1990、角川書店 ・「阿騎野」、東祥高、吉田春秋、1991、NECアベニュー(株) (CD+写真集) ・「万葉大和を行く」、山本健吉、1990、河出文庫 ・「空海書韻」、榊莫山、1991、美術公論社 ・「森の時間」、前登志夫、1991、新潮社 ・「梢の博物誌 大台ヶ原の森と昆虫をめぐって」、1987、柴崎篤洋、思索社 ・「柿本人麿が見た『かぎろひ』」、斉藤国治、1990、星の手帖、VOL.49、98 - 102. ・「吉野の自然観察」、日本自然保護協会、1987 ・「山菜のとり方と料理の仕方」、中井将善、1989、金園社

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