新城新蔵博士年譜          [10歳] [20歳]  [30歳]  [40歳]  [50歳]  [60歳]

  『自然』第8号(新城所長追悼号、S14)に掲載されました新城博士の年譜を以下に再掲しました。この年譜は荒木俊馬博士が編纂されたもので、その手書き原稿も当文庫に集録されています(SB1810、1811)。たいへん詳しい年譜でnbsp;り、新城博士関連の研究の基礎資料としても重要なものですが、現在では『自然』誌そのものを閲覧できる図書館が限られておりますので、本目録の付属資料として掲載することにいたしました。一部旧漢字を新漢字に改めたほかに、昭和14年時点と現在で時勢が合わない箇所および明かな誤字を訂正いたしましたが、それ以外はオリジナルのままです。

  この年譜を参照しながら新城文庫をながめますと、各資料の時間的・空間的位置づけが容易にできます。例えば、SB349〜351は昭和7年5月25日〜6月3日の北陸・東北旅行の際に各地で行った講演の原稿です。またSB392の講演原稿「東洋の文化」は年譜によりますと、昭和12年10月22日に上海を出発して帰国、24日に長崎に着いたときに、長崎医大にて行った講演のもので、10月16日に執筆されたことがわかります。


 
明治6年(1873)1歳
・8月20日、会津若松赤井町新城吉右衛門第六男として誕生、母ひさ、長男親寶、次男龍三、三男熊之助(早世)、四男藤四郎、五男新五郎。新城家は代々酒造業を営む旧家にして初代平右衛門清實は元文五年三月十八日卒。二代泰方(寶暦元年卒)、三代家鏡(安永七年卒)、四代方教(文化五年卒)、五代方寶(天保八年卒)、六代寶穏(天保十一年卒)、七代方寶(文化元年卒)、善寶は第八代平右衛門也。新城博士の名は新nbsp;厚寶と称す。

明治7年(1874) 2歳
・6月21日、兄藤四郎死亡(享年11歳)。

明治11年(1878) 6歳
・5月、第七大学区福島県管内第八番中学区会津郡栄町第一番小学(後に栄町小学校)下等小学第八級に入学。
・11月、同級卒業「平素行状端正且つ試験優等に付硯一面賞与候事」

明治12年(1879) 7歳
・5月、下等小学第七級卒業---春期試験優等に付き墨二挺被賞与。
・11月、下等小学第六級卒業。

明治13年(1880) 8歳
・5月、下等小学第五級卒業。
・11月、下等小学第四級卒業。
・12月13日、弟新八生る。

明治14年(1881) 9歳
・5月、普通小学第三級卒業。
・11月、普通小学第二級卒業---学科の成績優等なるを以て一金二十銭被賞与。

明治15年(1882) 10歳
・5月、普通小学第一級卒業---学術優等に付き賞状被与「学科の成績抜群なるを以て一金二十銭賞与候事」
・12月、中学科小学第四級卒業---学術優等に付二等賞筆二対被授与。

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明治16年(1883) 11歳
・5月、中等科小学第三級卒業。
・12月、中等科小学第二級卒業---学術優等に付二等賞半紙百枚被授与。

明治17年(1884) 12歳
・4月、小学中等科第一級卒業、高等科四級に進級。学術優等に付一等賞修身教訓一部被授与。
・7月、若松中学校(現安積中学の前身)創立せらる。第一期生として初等中学第八級に入学。校長\ 海津勇之進、同級生には高山樗牛、三浦菊太郎(元浪速高校長)、中桐確太郎(早大教授)、川井源八(三菱電気会長)等nbsp;り。

明治18年(1885) 13歳
・2月、初等中学第八級卒業。
・7月、初等中学第七級卒業(校長、山村弥久馬)、学術優等品行端正に付、二等賞神皇正統記一部被授与。

明治19年(1886) 14歳
・1月、初等中学科第六級卒業。
・7月、初等中学科第五級卒業(校長、 能勢栄)学術優等品行端正に付、ブラオン文典及洋紙五帖被授与賞与候事。

明治20年(1887) 15歳
・3月、尋常中学科第三級修業(校長、 和田豊)。
・12月、仙台第二高等学校予科尋常中学に入学(第一期生)、高山樗牛、三浦菊太郎は同下宿。井上準之助(元nbsp;相)も同窓なりき。

明治21年(1888) 16歳
・7月、二年生に進級。

明治22年(1889) 17歳
・7月、三年生に進級。
・9月、特待生を被命。

明治23年(1890) 18歳
・7月、尋常中学科卒業、引続き本科入学。(校長、吉村寅太郎)

明治25年(1892) 20歳
・9月、帝国大学理科大学(東京)に入学、物理学を修む。

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明治28年(1895) 23歳
・7月、理科大学卒業。理学士の称号を受く。引続き帝国大学大学院に入学、物理学一般に付研究。
・夏期に於て、震災予防調査会より磁力測定調査補助を嘱託せらる。

明治29年(1896) 24歳
・此年、マックスウェルの電磁気を耽読したる事、当時の日記断片に見ゆ。
・夏期、震災予防調査会より磁力調査補助を嘱託せらる。

明治30年(1897) 25歳
・9月1日、任陸軍教授、叙高等官七等。砲工学校附を命ず。七級俸下賜。
・10月30日、叙従七位。

明治31年(1898) 26歳
・6月3日、震災予防調査会より重力測定調査補助を嘱託せらる。
・9月27日、東京市士族渡辺望三女わかと結婚す。
・10月4日、十級俸下賜。
・11月4日、将校生徒試験常置委員兼任を被命。
・12月24日、九級俸下賜。

明治32年(1899) 27歳
・4月30日、重力測定調査補助嘱託を解き、重力測定方を嘱託せらる。

明治33年(1900) 28歳
・1月16日、陞叙高等官六等。
・1月23日、築城本部御用掛兼勤を被命。
・3月10日、叙正七位。
・6月20日、任京都帝国大学理工科大学助教授、叙高等官六等、本俸四級俸下賜。物理学第三講座分担、分担講座職務俸金百圓下賜。
・7月3日、測地学委員会臨時委員被仰付。
・7月4日、臨時緯度観測所へ出張被仰付。
・7月10日、上野駅発、大谷亮吉同行、水沢緯度観測所構内に於て12日より28日迄重力測定に従事、月末帰京。
・8月、京都へ移住。
・12月10日、長男英太郎生る。
・12月17日、物理学第三講座分担を免じ更に物理学第一講座分担を命ぜらる。分担講座職務俸金百圓下賜。

明治34年(1901) 29歳
・6月21日、出京を命ぜらる。
・7月、nbsp;賀、三重、岐阜、愛知、静岡、神奈川各県下に出張被命。
・11月1日、東京帝国大学理科大学講師を嘱託せらる。京都臨時地磁気観測所の管理を嘱託せらる。
・12月、東京帝国大学より臨時地磁気観測を嘱託せられ、名古屋にて観測に従事。
・12月24日、職務勤励に付き賞として金百圓下賜。

明治35年(1902) 30歳
・1月14日、本俸三級俸下賜。物理学第一講座分担を被免。
・3月19日、陞叙高等五等。
・4月、相模野基線付近に出張を被命。
・6月10日、叙従六位。
・6月14日、理工科大学物理科卒業諮問委員を命ぜらる。
・7月、京都府下福知山及び兵庫、岡山、広島、山口四県下へ出張被命。
・10月27日、職務俸金五百圓下賜。

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明治36年(1903) 31歳
・2月6日、御用有之新嘉坡、香港、上海、漢口、宜昌へ被差遣、大谷亮吉外一名同行地磁気観測旅行。
・4月28日、臨時地磁気観測嘱託を解く。

明治37年(1904) 32歳
・1月19日、震災予防調査会より、京都地磁気観測方監督を嘱託さる(洛北上賀茂地磁気観測所設立)。
・3月16日、本俸二級俸下賜。
・6月29日、長女京子生る。

明治38年(1905) 33歳
・京都の豪商藤原忠一郎氏の奨学資金によりて独逸国留学の事決定。
・1月18日、文官分限令第十一條第一項第四号によりて休職被免、同日付私費留学願の件は1月27日付にて許可せらる。
・1月21日、神戸出帆、独逸汽船。
・1月31日、東京帝国大学理工科大学講師嘱託を解かる。
・3月1日、伊太利ゼノア着。同日ゼノア発。ミラノ、サンゴタルト、ルツェルン、バーゼル経由。
・3月5日、独逸ゲッチンゲン着。同大学フォーグト教授のもとにて物理学一般に就きて研鑽。
・8月6日、月沈原発ブレーメン、ハンブルグ、キール地方旅行。15日月沈原帰着。
・9月1日、母ひさ死亡(享年69歳)。
・9月11日、ライン地方巡遊。自16日至19日、スツットガルト滞在独逸物理学会出席。20日洪国ブタペスト着。25日迄同地開催万国測地学会出席。ウィーン、プラーグ、ドレスデン歴訪。10月6日nbsp;月沈原帰着。
・12月27日、月沈原発、ハンノーファーを経て伯林へ。

明治39年(1906) 34歳
・1月4日、伯林発ライプチヒ、エーナ、ワイマール、アイゼナハ歴訪。1月中旬月沈原帰着。
・2月、ハルツ、アンドレアスベルグ旅行。
・4月、伯林に滞在。ポツダム測地観測所にて研究。
・6月13日より16日迄、近重博士同行、ワイマール、ライプチヒ旅行。
・8月26日、弟新八死亡(享年27歳)。

明治40年(1907) 35歳
・8月1日、月沈原出発。巴里及ロンドンに、滞在約40日。
・9月中旬、モスコー出発。藤井健治郎博士同行、西伯利亜経由にて10月帰朝。
・11月25日、任京都帝国大学理工科大学教授。叙高等官四等。本俸六級俸下賜。物理学第四講座担任を命ぜらる。

明治41年(1908) 36歳
・2月21日、叙正六位。
・7月26日、次女文子生る。
・10月31日、物理学第一講座分担を被命、分担講座職務俸金貳百圓下賜。

明治42年(1909) 37歳
・5月24日、総長推薦によりて理学博士の学位を授けられる。

明治43年(1910) 38歳
・1月25日、陞叙高等官三等。
・3月30日、叙従五位。
・5月5日、次女文子疫痢にて死亡。
・7月及び8月、志田順氏其他と九州地方重力測定旅行。
・7月26日、宮崎県延岡にて発病、高熱一日一回最高43度半に及ぶ。岩切、河野両医師及藤崎医学士の診察を受く。同31日宮崎丸に乗船。
・8月2日、帰洛。中西亀太郎博士の診察を受けマラリアと診断さる。約一週間にて全快。直ちに九州へ。
・8月18日、熊本県人吉にて発病。原藤医師の診察を受け、同20日郡立人吉病院に入院。大腸加登児と診断。
・8月26日、退院。即日汽車にて出発翌27日帰洛。

明治44年(1911) 39歳
・5月29日、本俸六級俸下賜。
・6月23日、三女隆子生る。 
     
45年(1912) 40歳
・7月14日、兄新五郎死亡(享年47歳)。

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大正2年(1913) 41歳
・2月4日、陞叙高等官二等。
・5月1日、叙正五位。
・7月24日、次男大二郎生る。
・8月17日、出発。北海道名寄地方に観測旅行。10月4日帰洛。
・9月10日、物理学第一講座分担を免じ、物理学第二講座分担を命ず。分担講座職務俸金二百五拾圓下賜。
・12月27日、叙勲四等授瑞寶章。

大正3年(1914) 42歳
・理工科大学より理科大学分離す。
・7月6日、任京都帝国大学理科大学教授。叙高等官二等賜本俸六級俸。物理学第四講座担任を命ず。物理学第二講座分担を命ず。分担講座職務俸二百五拾圓下賜。
・3月14日、父平右衛門善寶死亡(享年80歳)。

大正4年(1915) 43歳
・2月より5月に至る京都帝国大学講習会に於て、13回に亘り「宇宙進化論」を講義す。
・4月21日、本俸五級俸下賜。
・11月10日、大礼記念章を被授与。

大正5年(1916) 44歳
・8月30日、兄龍三郎死亡(享年59歳)。
・9月18日、応用数学応用力学講座分担を命ず。分担講座職務俸金百圓下賜。

大正7年(1918) 46歳
・2月26日、叙勲三等授瑞寶章。
・4月13日、欧米各国へ出張被仰付。5月大礼の計画なり。8月4日神戸出帆香取丸予約、渡米の予定なりしも、此のnbsp;より妻わかの病気悪化したる以て、遂に中止のやむなきに至る。
・5月30日、叙従四位。
・7月10日、物理学第四講座担任を免じ宇宙物理学講座担任を命ず(宇宙物理学講座新設)。
・10月25日、本俸四級俸下賜。

大正8年(1919) 47歳
・2月19日、妻わか死去(病名肺結核)。
・4月1日、賜本俸四級俸。
・5月21日、北米合衆国へ出張被仰付。
・7月30日、出発。神戸出帆、香取丸。四日市、清水、横浜寄港。
・8月16日、ヴィクトリア着、3日滞在ヴィクトリア天文台其他訪問、エローストーン・パーク見物。Ellendale 3日滞在。
・8月末、シカゴ着、約2週間滞在。其の間、Yerkes、Pittsburg天文台訪問。ワシントン10日滞在、それよりBaltimore, Philadelphia, Princeton, New York, Yale, Boston, Ottawa, Toronto, Niagara等歴訪再びワシントン帰着、Coon Butt, Flagstaff, Grand Canionを歴訪してLos Angeles着、Mt. Wilson及びLickを訪問。
・12月5日サンフランシスコ出帆、ホノルル経由、22日横浜着、25日帰学。

大正9年(1920) 48歳
・2月16日、陞叙高等官一等。
・3月3日、文部省社会教育講師を嘱託さる。
・6月28日、測地学委員会委員被仰付。
・7月31日、物理学第二講座分担職務俸金三百七拾圓下賜。応用数学応用力学講座分担職務俸金百五拾圓下賜。
・11月25日、学術研究会議員被仰付。

大正10年(1921) 49歳
・1月21日、物理学第二講座分担を免ず。応用数学応用力学講座分担職務俸金三百七拾五圓下賜。
・4月19日、賜本俸四級俸。

大正11年(1922) 50歳
・10月26日、賜本俸三級俸。

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大正12年(1923) 51歳
・7月、京都市教育会終身会員。
・7月21日、叙正四位。
・7月、第二回汎太平洋学術会議参列の為め豪州へ出張を命ぜられ、上旬出発。自8月13日至22日メルボルンに於て、自23日至9月3日迄シドニーに於て会議に参列。
・10月17日、安芸丸にて帰朝。
・12月15日、京都帝国大学理学部長。職務俸金五百四拾五圓下賜。

大正13年(1924) 52歳
・3月1日、長女京子、京大理学部講師荒木俊馬と結婚す。

大正14年(1925) 53歳
・3月28日、叙勲二等授瑞寶章。
・5月1日、京都帝大構内天文台落成披露式。
・5月、外務省対支文化事業上海委員会委員被仰付。
・12月15日、依願京都帝国大学理学部長被免。

大正15年(1926) 54歳
・年初より東京にて開催さる可き第三回汎太平洋学術会議準備の為に多忙なり。
・4月1日、東京に於て対支文化事業上海委員会の初会合nbsp;り、上海自自然科学研究所の設立及び内容具体化す。
・4月21日、応用数学応用力学講座分担被免。
・4月26日、賜本俸二級俸。
・夏nbsp;より宇宙物理学教室天文台の移転問題起る。吉田山地所を物色す。
・10月30日、東京帝国大学大講堂に於て第三回汎太平洋学術会議開会。会期中、出版宣伝部主任として活動、会議に関する出版物は博士の監督下になる。
・11月11日、閉会。
・12月30日、上海に於て委員会開催に就き来滬し、上海自然科学研究所組織の母体たる上海委員会の成立に就き中国側と折衝、斡旋するところ頗る多かりき。

昭和2年(1927) 55歳
・3月、長男英太郎、京都帝国大学哲学科卒業。南満州鉄道株式会社に就職。奉天勤務。
・7月14日、長男英太郎、舞鶴市竹内亀吉長女治代と結婚す。
・夏、天文台を洛東花山に移転する事に決定。
・秋、伏見工兵隊に依頼して花山天文台用自動車道路完成す。
・8月、朝鮮、満州、北支旅行。8月14日京都発。平山信、木村栄両博士同行、門司、釜山、大邱、慶州、京城、金剛山、温井里、元山、京城、平壌、奉天、大連、旅順、金州。9月6日大連出帆8日夜北京着、一週間滞在、15日天津出帆長江丸にて、18日門司着帰朝。

昭和3年(1928) 56歳
・6月1日、外務省事務を嘱託さる(上海自然科学研究所設立。物理学科指導員)。
・8月15日、叙従三位。
・11月10日、大礼記念章を授与せらる。年末より花山天文台建築開始。

昭和4年(1929) 57歳
・3月22日、任京都帝国大学総長(一等)賜一級俸。
・4月18日、文政審議会委員被仰付。
・7月、北海道旅行。15日京都発。東京、会津若松、仙台、青森、函館、札幌、青森、会津。8月3日、帰洛。
・7月4日、小西重直夫妻の媒酌にて富山市松原清姉ヨネ子と結婚。
・10月19日、花山天文台開台式。

昭和5年(1930) 58歳
・6月27日、出発。京都帝国大学演習林視察の為め樺太に出張。7月20日帰洛。
・9月1日、上海着。同3日上海に於ける研究所開設準備委員会に出席す。研究組織の具体案に就き討議せり。尚建物の実際を検分して各学科の室割等を決定せり。

昭和6年(1931) 59歳
・2月20日、測地学委員会委員被仰付。
・6月、朝鮮旅行。20日出発、釜山経由、26日京城着、26日帰洛。
・12月、台湾旅行、六亀京都帝国大学演習林視察の為め台湾に出張。5日出発、基隆、台北、高雄、六亀、台中、嘉義、阿里山、27日帰洛。

昭和7年(1932) 60歳
・4月、満州旅行。6日木津川飛行場出発。太刀洗、蔚山経由、京城、奉天、公主嶺、長春、ハルビン、チチハル、四平街、大連。20日大連出帆ウスリイ丸、22日門司着帰国。
・5月、北陸旅行。25日出発、金沢、長岡、秋田、若松。6月3日帰洛。
・11月3日、三女隆子経済学士石田興平と結婚。
・12月、上海自然科学研究所視察の為め上海行。野満隆治博士、能田忠亮学士同行。7日出発。8日長崎出帆長崎丸、9日上海着。主として上海自然科学研究所、其他同文書院、徐家匯天文台訪問、戦跡視察。12日夜行南京、北極閣気象台、紫金山天文台、中山陵、明孝陵、故宮博物館等視察、14日夜行上海。15日杭州、17日上海出帆龍田丸にて帰国。

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昭和8年(1933) 61歳
・3月22日、依願免本官。
・4月6日、特旨を以て位一級被進、叙正三位、叙勲一等授瑞寶章。
・4月18日、学術研究会議にてリスボン測地地球物理学会に本邦代表として出席する事に選定さる。
・5月5日、帝国大学令第13條に依り、勅旨を以て京都帝国大学名誉教授の名称を受く。
・7月28日、神戸出帆宮崎丸。上海、新嘉坡、コロンボ、アデン寄港。8月27日スエズ着。陸路金字塔及びカイロ訪問、ポートサイドより上船、ナポリ経由、9月3日マルセイユ上陸、4日巴里着。7日巴里発、8日マドリッド訪問、11日リスボン着。自17日至23日、一週間万国測地地球物理学会出席。9月25日リスボン港出帆、アビラ・スター号、プリマウス、ブーローニュ経由。27日ティルバーリー上陸、ロンドン着。滞在十日間、グリーニッチ、剣橋其他歴訪。10月7日ロンドン発、フック、ロッテルダム、ライデン、ハーグ歴訪。9日伯林着、ポツダム、ノイバベルスベルグ、其他研究所、天文台、大学等視察。16日独逸外務省にて独逸赤十字一等勲章授与。20日伯林発、ライプチヒ、ドレスデン、月沈原、マールブルグ、フランクフルト・アム・マイン、ハイデルベルグ、ミュンヘン、バムベルグ歴訪。11月1日伯林帰着。3日伯林発、ミュンヘン、ヴェニス、フィレンツェ、ローマ歴訪。11日ナポリ出帆白山丸帰朝。12月15日神戸着。

昭和9年(1934) 62歳
・10月、入沢博士より、横手所長の後任として、上海自然科学研究所長として推薦の旨来翰nbsp;りしも、役目内容重過ぎる事、健康状態近来自信なきとの理由にて辞退せるも、委員会及び外務省の懇請によりて遂に受諾するに至る。

昭和10年(1935) 63歳
・2月22日、京都発。神戸出帆の照国丸一日延期となりたるも、此の日は凶日なる故迷信打破の意地もnbsp;りて船にて宿泊、23日出帆、27日上海着。横手前所長と同道なり。
・2月26日、上海自然科学研究所長辞令発令。
・3月、南京行。夫人、中尾、会、沈夫妻同行。支那側要人へ就任挨拶の為め12日南京、15日鎮江より太湖横断蘇州に至る。17日帰任。
・4月1日、研究所所員の支那語講習を始む。
・4月、研究所倶楽部雑誌発刊決定。誌名は『自然』。『龍華』『同文』『同攷』等より『自然』と銘名。5月第一号出版。
・5月、11年度に於ける北満日食遠征計画進む。
・6月1日、兄平右衛門死亡(享年82歳)。
・6月16日、岡田文化事業部長の来所を機とし、在滬日本留学生出身者を所長宿舎に招待、茶会を催す。来会者50余名なりき。
・6月18日、呉鐵城市長の茶会に出席。卒倒したるも間もなく快復せり。
・9月1日、離滬。3日京都着。7日夜行北陸線にて会津若松。11日出京、関係諸方面折衝。19日、上海委員会、18日帰洛。29日神戸出帆龍田丸にて、10月1日帰任。
・10月3日、杭州行、同日帰所す。

昭和11年(1936) 64歳
・1月18日、外務省、学術研究会議、学術振興会、6月日食打ち合わせの為め帰国。2月26日帰任。
・3月下旬、次男大二郎横浜高等工業学校機械科卒業。
・4月、北支旅行。中尾、梅原、内藤、楊、王、同行。16日上海発、17日除州訪問、開封泊。省政府、河南大学、博物館等訪問、19日黄河視察、20日済南、諸研究所、大学等歴訪。5月1日、上海帰任。
・6月、北満日食遠征。5月31日上海出帆青島丸、辻野同行。青島経由、2日大連着。4日新京着、速水頌一郎一行の磁力観測地視察。6日四平街。7日チチハル着、東中秀雄一行の磁力観測地視察。9日飛行機にてハルビン。11日ハルビン出発北安鎮泊。12日黒河着。14日黒河出帆北海丸にて黒龍遡流、16日夜半呼瑪着、荒木俊馬一行の観測地視察、17日より水路部型絶対磁力計にて自ら観測。19日皆既日食。20日午前3時呼瑪碼頭出帆、21日午後黒河着。北安鎮、チチハル、四平街経由、22日奉天着。同日夜行23日夜熱河承徳着。26日承徳発、26日奉天泊。28日大連。29日出帆青島経由、7月1日帰任。
・9月30日、日本近代科学図書館設立委員となる。
・10月、帰国。3日上海出帆秩父丸。5日京都着。8日朝出京夜行、9日朝若松。11日出京、外務省其他関係方面と折衝。12日委員会。15日夜行西下、17日広島文理科大学記念祭にて講演、19日帰洛。29日神戸発、11月3日上海帰任。

昭和12年(1937) 65歳
・1月、福州香港旅行。夫人、王修、千田、同伴。12日上海出帆嵩山丸、14日福州着。21日福州出帆盛京丸にて基隆上陸台北訪問、24日基隆出帆香港丸、25日廈門、26日汕頭、27日香港着。2月1日マカオ往復、3日香港出帆秩父丸にて5日上海帰任。
・3月、帰国。3日離滬、4日長崎、5日京都着、6日朝出京、14日帰洛。両三日滞在。3月22日帰所。
・4月上旬、次男大二郎京都帝国大学工学部助手拝命。
・4月1日、第4回中華医学会大会に来賓として参列せり。
・4月、帰国。夫人同伴、20日上海出帆上海丸、23日京都着。24日朝出京、5月2日東京発会津若松、5日出京、6日夜出発、伊東温泉にて休養、7日夜帰洛、18日長崎出帆長崎丸にて、20日帰任。
・5月22日、コペンハーゲン大学教授ボーア来所に付き午餐会を催す。
・6月、『中国文化情報』発刊。
・7月7日、北支事変勃発。
・8月9日、大山大尉事件起り、同13日上海は戦乱の巷と化す。
・8月27日、全所員を本館会議室に集め研究所の方針を説明し時局に処する態度を指示訓示せり。
・10月、帰国。2日上海発、5日神戸着帰洛。7日出京、12日帰洛。14日神戸出帆帰任。
・10月22日、上海出帆、24日長崎着。26日門司出帆長江丸。29日塘沽着、北京直行。滞在旬日余、支那諸大学、諸研究所の復興再生の為め尽力、周口店訪問。北京に上海自然科学研究所臨時出張所を設く。11月11日塘沽出帆、長城丸14日門司着。11月27日帰所。
・12月9日、軍特務部より図書文献接収保存の委員委嘱を受く。
・12月13日、南京陥落。

昭和13年(1938) 66歳
・2月、南京行。3日朝研究所を自動車にて出発。上野、尾崎、東中同行。南翔、嘉定、太倉経由午後3時蘇州着、文化施設の保存状態視察、野戦予備病院宿泊、4日朝6時出発、善人橋、無錫、常州、奔牛、鎮江、句容、馬群鎮経由5時南京着、途中タイヤのパンク、ガソリン鑵の破漏、自動車十余尺の壁下に墜落幸いにも怪我人無かりしも、工兵隊トラックの来れるに遭ひて救助せられたる等の事nbsp;り。5、6、7日南京滞在、中央諸研究院、北極閣気象台、紫金山天文台、其他の現状視察。7日午後2時出発、常州兵站司令部宿泊。8日上海帰任。
・2月、杭州行。15日朝6時上海北站出発。上野、速水、木村同伴。午後3時杭州着。軍司令部泊。15、16、17日文化諸施設の現状視察並に応急処置。18日帰滬。
・3月、帰国。1日上海発、4日帰洛。7日出京、20日帰洛。23日京都発、25日帰任。
・4月1日、維新政府成立披露会に出席す。
・4月22日、東亜実業倶楽部創立発起人となる。
・5月上旬、次男大二郎三菱重工業技師、東京市玉川器械製作所勤務。
・5月15日、新興倶楽部創立委員となる。
・5月、南京行。17日朝8時ガソリンカーにて上海北站出発。午後3時南京着、23日まで滞在、文化資料学術標本の散逸防止保護管理につき軍部と交渉。23日夕刻帰滬。
・5月28日、閑院宮春仁親王殿下に謁を賜り研究所の状況を説明申上ぐ。
・6月、最後の帰国。夫人同伴。6月2日上海発、8日帰洛。8日出京。21日帰洛。23日京都発、27日上海帰所。
・7月6日、海軍嘱託(勅任待遇)となる。
・7月21日、陸軍嘱託(勅任待遇)となる。
・7月22日、南京に於ける学術標本類の保管整理状況の視察並に実地指揮のため約四日間の予定にて午前6時25分発普通列車にて所員8名を随伴し南京へ出張、午後8時下関駅着。
・7月24日、連日の猛暑にも不拘、現地各方面を奔走のため相当疲労を覺え夕刻より下痢を催し臥床、須藤医師の診察を受く。
・7月25日、須藤医師再び診察し、同仁会医院の岡崎院長の来診を請ひ立会診察の結果、午後1時、同仁会医院に入院す。
・7月26日、病状は大腸カタルの模様にして意識は明瞭なり、夫人並に川名研究員等看護のため南京へ来る。
・8月1日、30日朝より病状悪化し来りたるが午前5時6分遂に薨去。
・8月2日、同仁会南京医院に於て軍の手厚き保護の下に告別式を執行さる。夕刻より故宮飛行場にて荼毘。
・8月4日、遺骨上海着。
・8月10日、午後3時より共同租界日本人中部小学校に於て上海自然科学研究所葬。葬儀委員長は尾崎研究員。
・8月12日、遺骨離滬、15日京都着。
・8月21日、午前9時より相国寺に於て葬儀(葬儀委員長松山基範、導師相国寺管長山崎大耕師)


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