1999年秋に荒木雄豪氏(京都産業大学名誉教授)から荒木家に保管されていた新城新蔵博士(1873-1938)の資料一式が京大宇宙物理学教室に寄贈されました。新城氏は宇宙物理学教室の創立者であり、京大総長、上海自然科学研究所長を歴任、戦前の科学・技術政策にも深く係わった人物でした。荒木雄豪氏の父の荒木俊馬博士(1897-1978)は宇宙物理学教室の教授、京都産業大学創立者であり、新城氏の娘婿にあたります。そのため新城氏が1938年南京で亡くなった時、その資料一切をまかされることになったのでした。
資料は、ブロンズ製胸像を始めとして、寺田寅彦・田中館愛橘・木村栄など錚々たる人物からの来簡、講演・講義原稿、著書・論文原稿、手帳、日記、事務書類、写真、その他合わせてダンボール箱10箱をこえる膨大なものでした。資料のなかには荒木俊馬博士関連の資料も約20%含まれています。 京大では総合博物館が新築中ですし、総長関連資料も順次整備・保管されるようになるものと聞いています。しかし大学の博物館には専門の学芸員が配置されることはほとんどなく、資料類は保管されるだけになる可能性があります。従いまして新城博士関連の資料を将来は京大総合博物館に移管するものとしても、その前に科学史的研究を済ませておきたいとのことで、明治以降の天文学史に関心を持っておられる方々にお集まりいただいき、2000年3月23日、24日の両日資料のお披露目をかねてワークショプ的な研究会を宇宙物理学教室会議室で開催しました。 この研究会には、吉田省子(北大)、横尾広光(杏林大)、株本訓久(武庫川女子大)、久保田諄(大阪経済大)、岩崎恭輔(京都学園大)、池村奈津子(教室図書室司書)、冨田良雄(京大)があつまりました。教室主任の斎藤衛氏および荒木雄豪氏からご挨拶をいただいたあと、早速資料を机の上に展開してひととおり眺めながら付箋を貼って通し番号を発行する作業に入りました。しかし資料の数が膨大であることから、残念ながら日程がつきてしまいました。さらに5月にも再度同メンバーにより研究会を開き、「新城博士の著作テーマの傾向について」、「緯度観測について」などの講演発表にもとづいて認識を深めるとともに、整理・分類作業も行いました。その後も京都近辺に在住のものが少しづつ整理作業・目録づくりを進め、科学史学会等の機会を利用して資料の紹介を行ってきました。こうした作業のなかで、科学史的に興味深いいくつかの書簡が見つかり、今後の研究がまたれる状況です。 この研究会ではこれらの資料を「新城文庫」と名付けることが合意され、新城博士の蔵書類の殆どが所蔵されている国会図書館の「新城文庫」と区別する必要がある場合には、「新城文庫@京大」の名称を使うことになりました。また、新城博士の幼少時から二高までの資料類は故郷の安積歴史博物館に保管され、荒木俊馬博士の資料の主要部分は京都産業大学図書館に保管されています。 |
第1回目の研究会を契機に資料の整理・分類にとりかかり、半年を経てようやく目録が完成しました。まだ個々の資料の読み込みがほとんどできていない状況ですので「新城文庫」の全体像を述べるのは時期尚早ですが、その概要をここで紹介しておきます。普通なら処分してしまうような資料までが良く保存されており、ある程度整理して箱詰めされていました。表1に各項目毎の資料数を示しています。総資料数は2,351件にのぼります。第3欄の数量は新城・荒木両方を合わせた資料件数を、第4欄はそのうちの新城関連のもの、第5欄は荒木関連のものの数量を示しています。なお表1で細目を明示してあげた資料は同じ分類項目のうちの一部です。よって合計数には加算されません。
表1の来簡の細目で何人かの名を挙げておきましたが、研究に関する学者同志の往復書簡のうちの来簡が含まれています。これらの書簡からは、論文になる以前の学説形成に関する科学史的研究ができるでしょう。また、事務書類や写真の中には上海自然科学研究所に関する歴史資料もかなりありますので、この方面の研究にも役に立つものと思われます。 |
表1.「新城文庫」の資料概要
分 類
胸像 手帳 日記 書籍 本の原稿 論文原稿 講演原稿 書簡 写真
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細 目
寺田寅彦より
受教申請カード
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数 量
1基 116冊 9冊 36冊 11編 105編 143編 192通 29 1 4 3 5 1 7 393葉 422冊 68葉 10 37 107編 181編 520 191 0 |
新城資料
1 115 9 17 10 101 143 188 391
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荒木資料
1 19
4
2
3
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備 考
小型のブロンズ像 明治32年頃〜昭和8年 明治29年〜昭和2年 校正用ゲラ刷を含む
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合計 | 2,351 | 1,811 | 540 |
私たちの研究会の問題意識のひとつとして、東京帝国大学の物理学科をでた新城氏が、京大にやってきて専門である宇宙物理学・地球物理学の研究のほかに「東洋天文学史」なる新分野を開拓・発展させ得たのはどうしてなのだろうという疑問がありました。新城文庫目録をみますと、東洋史学の内藤虎治郎(湖南)などの名前が目につきます。また同時代には東京帝大の平山清次も迷信等の論説を新聞に掲載しておりますので、東洋天文学史なるものが創設されるべき時代背景があるのだろうと想像されるわけです。
新城が京大にやってきた6年後に京大文科大学が創設され、その初代学長となった狩野享吉(1865-1942)が、自分のくびをかけて招聘した内藤湖南(1866-1934)との交流がありました。新城氏は会津、狩野は秋田、内藤も秋田といずれも戊辰戦争の悪夢が醒めやらぬ東北日本出身でした。そして日本側から中国大陸をみたとき、日清戦争(1894)、日露戦争(1904)をへて辛亥革命(1911)によ
新城が東洋史学の人々からの依頼により始めた東洋天文学史は、漢籍にみえる天文現象を抽出して歴史事件の年代を推定する年代学でしたが、この手法はのちの薮内清、能田忠亮、渡辺敏夫などの東方文化学院の天文学史グループへと引き継がれていきました。新城文庫には東洋史学の影響を受けて誕生した東洋天文学史の流れを実証する資料が多数含まれており、今後の研究が待たれる状況です。 |
目録は新城新蔵博士関連のものと荒木俊馬博士関連のものに分けて、両者を一貫して通し番号をつけました。番号の数字の前に新城文庫の頭文字SBを付けて、SBnnnという略号でよぶことにします。分類は16項目からなり、さらに必要に応じて細目を[
]で囲んで記入してあります。つぎにタイトルや人名の項目、日付欄、備考欄が並び、最後に付箋番号を(
)で囲んで記入してあります。この付箋番号により原資料を取り出すことが可能です。日付欄のM、T、Sはそれぞれ明治、大正、昭和を示し、西暦の場合には4桁の数字のみで表します。月日はピリオドで区切って示してありますが、なかには日付のないものや年が不明のものもあります。また手紙は消印が押されている場合、その日付も並記しました。
手書きのくずし字で判読不明な文字、および第2水準JISコードにない文字については、■で表しています。ただしこの場合でも一部の人名については平仮名で表示しました(例えば桑木あや雄)。 手帳、日記、講演原稿、書簡、冊子・別刷など日付が比較的よく確定している資料につきましては、日付順に並べかえを行いました。しかし、これらの資料の中にも年・日付の不明なものも含まれており、それらについては元々束にして保存されていた順序を考慮して隣接する確定日付の資料とともに並べてあります。したがいまして、日付欄に年月日の情報が欠けている資料につきましては、十分に
また、人物写真に名前が注記してあったり硫酸紙のオーバーレイに人名一覧がある場合には、それらを全て備考欄に記しました。これは人物像の検索や、人物間の関係を調べるのに便宜を図るためです。 |
今後、「新城文庫」の紹介を兼ねた論文を公表するとともに、目録のデータベース化を進めます。その間の資料の利用は前記の研究会に参加し直接作業を進めているメンバーに優先権があるものとしますが、これらのメンバーとの共同研究をさまたげるものではありません。新城文庫を用いた研究の優先権の期限はこの目録が刊行されてから約1年間といたします(2001年11月まで)。データベースが公開された以降については、資料そのものもオープンにできるように努力し、重要だと思われる資料についてはデジタル化し、オンラインでも閲覧できるように努力したいと考えております。
当面の連絡先は、京大宇宙物理学教室の冨田良雄(tomita@kusastro.kyoto-u.ac.jp)ですのでご相談ください。 |
新城文庫の概要について説明をしてまいりましたが、研究グループ一同これらの資料の保存に力を注いでこられた荒木家の方々にあらためて感謝する次第です。また、この文庫には朝鮮半島、満州、上海などの戦時中の資料が多数含まれており、新城博士の戦争協力責任の問題も浮かびあがってくるわけですが、21世紀に向けて我々日本人が近隣のアジアの人々、また世界の人々と協力しあって人類史をすすめてゆけるように願う立場から、科学的に評価を行う課題が残されていると考えております。
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